誰もが人としてあたりまえに暮らせるまち

 NPO法人SEAN(シーン)代表 遠矢 家永子

 「障害者がまちで暮らす」をテーマに、「花の会ニュース」の原稿を書いて欲しいとのお話を伺った時、正直いって「なぜ、私に?」との思いをもちました。私自身が障害のある方と日々関わっている訳ではないし、私が代表を務めるSEANの事業である保育サポートで、障害の有無にかかわらず多様な子どもたちを受け入れることを模索してはいるものの、『障害者』をメインテーマに取り組んでいる団体ではないからです。

 ひょっとしたら、「ボランティアグループありんこ」に所属している私の娘と私とを間違って、「遠矢さん違い」でご依頼いただいたのではないかとの思いが浮上し、改めて確認させていただいてからようやく執筆に取り掛かったという次第です。前置きが長くなってしまいましたが、「障害」があるということに深く関わっていないという立場で、私が感じること考えることを少しまとめてみようと思います。

それぞれが抱える「障害」というものはとても多様です。その上、その方と関わる側の経験や認識不足から、どのように関わればいいのか戸惑ってしまう場面がたくさんあります。それ程に、日常の中での障害のある人たちとの接点は、当事者やその家族ではない限り、意図して作らなければ作りにくいといった現状があります。

また、社会は何かにつけ人を分類したがります。同じ種類の課題を持つ者同士が、共感し合い支え合うためにつながることはとても意味があることです。けれども、多様な状況を理解し合い共存させることも大切なことで、それが日常の中でありきたりな風景にならなければ、自分が所属していない部分においては他人事になってしまいますし、どのように関わればいいかが不安になり、より距離をあけてしまうことにもつながります。分類することは少数者をつくることをも意味し、少数者の思いや意見は反映されにくく、多数者が意識して目を向けなければ差別や排除が生じます。当事者や当事者と直接関わる人たちだけの問題にしていることで、抜本的な課題解決にならないといったことがあちらこちらで起こっているようにも思います。

ある講演会で講師の方が、「障害者」と「健常者」を「もうすでに障害のある人」と「まだ障害のない人」と表現されているのを耳にしました。「誰しも老いれば何かしらの障害が生じる」というのが彼女の見解で、私はその時「障害」を人事として捉えないこと、様々な所属をはずし先入観や思い込みをなくし一人の人として関わりを持つことの重要性を認識しました。

障害の有無・性別・年齢・職種や所得にかかわらず、誰もが持つあたりまえの人権が保障されるまち・国になればいいなと思います。当事者もその家族も、そして第三者も、互いの思いを出し合い理解し合う努力をし、息切れすることのないようそれぞれが望むことを主張し、相互にできることを少しずつでも形にかえていければと思います。そのためには、第三者的な人たちが境界線をはずし、気負うことなくあたりまえのこととして、障害のある人たちと日常を共に過ごせるまちを具体化していく努力が必要なのだと思います。

花の会ニュース 第120号(2004年10月1日発行予定)