“理解する”のではなく、“受け入れる”ということ(no211)
<ゲシュタルトの祈り>
わたしはわたしのために生き あなたはあなたのために生きる
わたしはあなたの期待に応えるために
この世に生きているわけではない
そして あなたもわたしの期待に応えるために
この世に生きているわけではない
わたしはわたし あなたはあなた
偶然がわたしたちを出会わせるなら それはそれで素敵なこと
たとえ出会えなくても それもまた同じように素晴らしいこと
(フレデリック・パールズ)
10年ほど前、川喜田好恵さんが書かれていた新聞記事のコラムの中で、私は
「ゲシュタルトの祈り」に出会いました。
私たちは無自覚のうちに、「らしさ」や「あるべき姿」にとらわれていることが多くあります。
「女らしさ」のとらわれの中で、他者からの自分が望んでいない「好意」に対して明確に
「NO!」を言えずに、うやむやなまま押し流されてしまい、我慢できなくなった時点で
その憤りを相手に爆発させるといったことを繰り返し、そんな自分を持余し始めていた頃のことでした。
「ゲシュタルトの祈り」との出会いと共に、ようやく私も含め誰もが誰かの「期待に応えるために
生きているわけではない」ことが消化できるようになり、「誰のせいでもなく、誰のためでもない」
私の人生を自覚し、その人生を選んでいくよう心掛けることができるようになりました。
成育暦の中で、親・学校、社会からの期待や評価を自覚のないまま身にまとい、
その価値観でがんじがらめになりつつ、いつの間にか自分だけではなく、他者に対しても
その矛先を向けてしまう
――そんな連鎖を誰もが無自覚なまま繰り返していく中で、ジェンダー社会が形成されていく
のかもしれません。
社会から期待される性別役割に応えていくというのではなく、ありのままの自他を受け入れ
尊重し合える関係性の中で、非暴力社会をつくっていきたいと切に願います。
人としてどのように生きるかは、社会秩序を保つために必要なことだと私も認識しています。
その秩序は、人権という「法はすべての人の上で平等であり、誰もの人権を侵害してはならない」
といった人権尊重の精神から生み出すべきなのではないでしょうか。
性別役割によるジェンダーを重視している人の多くが、同時に「人権派」という言葉で
「人権尊重」という概念を主張する人たちを、あたかも世の中の無秩序を生み出している
根源であるかのように言うことが多いのは、なぜでしょうか?
性別による「あるべき姿」を画一的に追求していく先で、自己決定権の侵害と、
不均等な支配構造が待ち伏せしているとしか私には思えず、その居心地の悪さを
押し付けられたくないと強く思います。
話は少し変わりますが、「関西Queer Film Festival 2006」(性とそれに関わるライフスタイルを
テーマにした作品を集めたQueer映画祭)に今年も出向き、映画を2本観て来ました。
トランスジェンダーを取り上げた作品集の中で、こんな言葉に出会いました。
「“理解する”のではなく、“受け入れる”ということ」 「あなたのせいじゃない。社会に理解がないだけ。社会が遅れているだけ。」
「女は女、男は男」ではなく、「わたしがわたしであり、あなたがあなたである」という
それだけのことが、なぜこれほどまでに私たちが住む社会では、受け入れがたくなって
しまっているのでしょうか?
個が自律し、互いの個の違いを受け入れ、尊重しつつ、多様性を共存できる社会を、
私は「人権」をベースにこれからも問い続けたいと思います。
2006.7.24 かえこ
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